滞在記

40年前のソ連の思い出

今はロシアと国の名前が変わりましたが、まだソ連だった時の思い出を一つご紹介します。

1974年頃のソ連です。

当時は昔懐かしいDC8と言う飛行機で羽田(東京国際空港)からモスクワのシェレメチボ国際空港へ行っていました。

DC8の航続距離ではモスクワまで行くのに結構厳しく、いつも燃料は満タン、且つ羽田の滑走路を目いっぱい使ってやっと離陸していました。

時には風の影響で燃料が足りずに途中のハバロフスクで一度降りて燃料を補給してから行った経験もあります。

シェレメチボ国際空港は同じくモスクワのドモジェドヴォ空港に次ぐ、ロシアで2番目に大きい空港です。
このシェレメチボ国際空港ですが、最近は施設も古くなって来たため、今では国際便のメインはドモジェドヴォ空港の方になったようです。

当時は今と違ってまだ民主化もあまりされていなかったので、空港からホテルに行くときは途中で検問所があった事が思い出されます。
特に止められると言う事はなかったのですが、国の体制の違いを肌で感じました。

ホテルはモスクワ川のほとりに立つホテルウクライナ(上記画像)と言う、見た目は壮大なホテルに泊まっていました。

このホテルは1953年から1957年にかけて建設されたスターリンゴシック様式のホテルですが、当時、部屋は決して立派とは言えないものでした。

天井は高いのですが、部屋の中は非常に簡素で、ベッドも日本のシングルベッドの3分の2ほどの大きさでマットレスは平ではなく人の型が着いていました。

その一方で各階のロビーの一部にはグランドピアノが置いてあったりと優雅さも感じられるところもありました。

今でもロシア語を聞くと、極寒の冬にこの簡素な部屋で一人過ごした寂しさと言うか、ノスタルジックな思いが蘇ってきます。

このホテルにはエレベータが何機かありましたが、乗るまでに20分近くかかる事もあり、フライトに出発するときは30分くらい時間の余裕をもって部屋を出たものです。

この当時のモスクワの食事事情は非常に悪く、日本人が外に出て食事に行くようなレストランは皆無で、モスクワ便を乗務するときはおにぎり等を持って行ったのを覚えています。
到着した日は皆が持ち寄った日本食を一緒に食べていました。

たまにホテルのレストランにも行ったことがあります。
待ち時間が長くなかなか入れなかったのですが、そこは裏技もありますので大体行けばそれほど待たずに席にありつけました。

ソ連の料理で今でも覚えているのはピロシキ(肉まんじゅうを油で揚げた様な物)とボルシチ(カブをベースとした赤いスープ)です。
結構おいしかったですね。

左がピロシキ、右がボルシチです。

モスクワには確か3泊前後していたような記憶がありますが、食事事情がこのような状態でしたので会社がホテルの近くにアパートを一部屋借りて自炊ができるようにしてくれていました。

現地での休みの日は近くに買い出しに行って、アパートでご飯を炊き、自炊をして過ごしていましたが、食糧事情も非常に悪く、マーケットに行っても空きの棚が目立ち、当時の国の経済状態は深刻な状況だったんだと今になって思います。

当時はブレジネフ書記長の時代で、停滞の時代と呼ばれ物資不足や官僚の特権化が進んだ時代ですが、私が行った時期のモスクワの印象を今思いだしてみると暗く寒い冬のイメージですね。

ブレジネフ書記長のあとゴルバチョフ書記長がペレストロイカと言う民主化に乗り出すのですが、そのままの体制ではうまくいかず結局、1991年にソビエト連邦共産党が解散し、それに伴ってソビエト連邦が解体され、ソ連が崩壊しました。

その後しばらくはアメリカをメインで飛んでいましたので、モスクワに行くことはありませんでしたが、民主化した後の1995年ごろに20年ぶりくらいでモスクワに行く機会がありました。

泊まったホテルはウクライナではありませんでしたが、モスクワの街は様変わりでした。
街には活気もあり、我々がいくようなレストランもたくさんあり、もう暗いイメージはありませんでした。

マクドナルドもあるほどで、日本食レストランもいっぱいありましたが、ロシア風にアレンジしたなんちゃって日本食が多かったですね。

今もそうではないでしょうか?

このような移り変わりを見ると戦後の日本に生まれて本当に良かったと感じます。

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